優先すべきものが逆転し始めた [◆これからのワークスタイル]
優先すべきものが逆転し始めていると感じることが多くなってきた。
優先すべきもの
「働く」時に何を優先するか
人は「働く」ことなくして生きてゆけない。
これは、太古の昔からそうだ。
水を飲む、食べ物を採る、暑さ寒さから身を守る、
そういった生命の安全のために「働く」を続けてきた。
文明が発達し、衣食住が満たされるようになるにつれ、
生命の安全のための「働く」に少しずつ違う目的が追加されていった。
マズローの欲求五段階説は有名。
1.生理的欲求
2.安全の欲求
3.所属の欲求
4.承認の欲求
5.自己実現の欲求
それに照らしてこの日本の「働く」の変化を見てみる。
<第一ステップ: 3.所属の欲求>
そう、自分の父親世代が社会でバリバリ働いていたころ。
高度成長期。
運動会があった。
社宅があった。
仲人は会社の上司だった。
組織に所属し、そこで仲間と一緒になって企業の成長を目指した時代。
毎年の物価高の中、生活は楽なはずはなかっただろう。
いつも貧しい気持ちの中で、いつかはクラウン、という言葉に象徴されるように、組織に所属して会社の成長と共に自分の収入も上がっていく夢を見て生きた。
組織の成長を第一優先にして「働く」時代。
<第二ステップ: 4.承認の欲求>
とくにバブル後の成果主義の時代。
バブル崩壊により、自分の夢を組織全体の成長とかぶらせることができなくなった。
日本経済のキャパシティが一杯になってきた。
白紙の部分、余地、伸びしろが少なくなってきた。
組織に従属していてはダメだ、
脱組織、
個人の力、
そんなベクトルがウンと強くなった時代。
会社が成長するためには、一人一人が成長することが必要。
MBA、海外留学、語学スクール、などなど
私自身、そういった価値観の真っただ中にいた。
個人の成長に焦点があたった。
成果に応じた対価を与えることで、モチベーション(=欲求)を満たす方策がとられた。
自然と、滅私奉公は死語となり、
組織維持のための活動には社員が参加するモチベーションが出てこなくなった。
脱線するが、この流れを良い悪いで論じる大先輩が多くいるが、これは必然と思ってる。
人間、そんな強い生き物ではない。
「所属」ということで欲求が満たされない以上、他の欲求を求めるのは自然。
人間の堕落だとか言うのは簡単だけど、堕落していたわけではないと思う、絶対に違う。
組織が、日本社会が、より高い成長を得られなくなった現実。
ミドルエイジでバリバリ働く人々のモチベーションの源泉が「承認欲求」になったのは道理。
個人の成長と達成感を第一優先にして「働く」時代。
<第三ステップ: 5.自己実現の欲求>
そして現在。
第一ステップ、第二ステップと比べて、極めて大きく変化した。
第一ステップ、第二ステップの欲求は、あくまでも「働く」中にあった。
第三ステップの欲求は、「働く」中から外へ飛び出し始めた。
「働く」ことが、完全に手段になった。
もちろん、自己実現のスタイルは人それぞれ。
「働く」中にそれを求める人もいるだろう、
しかし、大きな流れの変化は、やはり「働く」外にそれを求める人が多くなったこと。
子供との暮らし、
親との暮らし、
地域での暮らし、
友達との暮らし、
趣味との暮らし、
ペットとの暮らし、
・・・・
いろいろな「暮らし」、ライフスタイルに焦点があたる時代になった。
第一ステップ、第二ステップでは、「働く」中にそれがあったから、
例えば、早出・残業で目一杯自己裁量で働くことは有意だった。
組織にもプラス、個人のスキル・承認・評価にもプラスだった。
だからバリバリ働いた。
バリバリ働く人がかっこよかった。
バリバリ働く人が昇進した、昇進が良い事と思えていた。
ところが、第三ステップ。
「働く」外にそれがある。
バリバリ働くと、それに向き合えない。
バリバリ働くと、それに向き合えないから不完全燃焼。
だからバリバリ働くとかっこ悪い。
バリバリ働く人は昇進するかもしれないけど、昇進は別にどうでも良い事になってきた。
それ(昇進)よりも、もっと大切なことに本当に気づいた。
本に書いてあった、誰かが言っていた、そんな「ノウハウ本」的なマニュアル的な気づきではなくって、自分自身の心の底から、「欲求」が、自己実現を求め始めた。
そこにこの大震災・原発事故。
不安に揺れる心が、あらためて、自分の欲求に光をあててくれた。
例えば、子供が大切、だから、残業よりも家に帰る。有給は完全に消化する。
例えば、地域が大切、だから、週末は地域活動に参加する。家庭の用事をウィークデイに済ませるために早く家に帰る。
そしてこのステップで、底辺にある大きな、極大の変化は、「理屈よりも感情を優先する」ということ。
理論、理屈、合理性、理路整然、ロジック・・・
そんな言葉で覆い尽くされた過去の時代。
確かに、第一ステップ、第二ステップの時代には、それが通用した。
というよりも、その方が便利だった。
組織の中でコンセンサスを形成するために、
個人の実績を他人に認めてもらうために。
感情を出すのは馬鹿者とされた。
出来ない人間と言われた。
「感情論」というと、蔑む言葉だった。
でも、それが変わった。
「感情」「気持ち」を最優先する時代になった。
自己実現のためにはそれが必要だから。必然の変化。
もはや、「理屈」を振り回すと、「で、あなたの自己実現は?」と、今度は馬鹿にされる時代になった。
質問を一つ。
原子力発電を「感情」で心の底から使い続けたいという人いますか?
原子力発電を「理屈」の上で仕方なく使い続けるべきだという人いますか?
この「べきだ」が通用しなくなったのである。
なぜなら、「べきだ」と言うためには基準になるものが必要だが、それを失ってしまった。
一人一人の自己実現、感情、が基軸になった。
そうなると、「べきだ」は存在することができない。
個人の「感情」を第一優先にして「働く」時代。
若い世代ほど、こういった時代価値の変化には敏感だ。
心で感じるからだろう。
大人を見て反面教師にできるからだろう。
どうして残業までして暮らしを犠牲にしているのか?
単身赴任で育ちざかりの子供と一緒に暮らせない選択がどうしてできるのか?
きっと、そう日々感じることから、自分の生き方を見つけていく若者。
ある意味で明確に指示してくれている。
僕のような40歳代に明示してくれている。
また、もう一つのアドバルーンがシニア世代。
「感情」丸出しで生きている。生き生きしているのが傍で見ていてわかる。
僕のような40歳代から見れば「勝ち抜け世代」。羨ましい。ずるい、って思う。
そう、「感情」を犠牲にして「働く」あなた。
そろそろ、「感情」の優先度をちょこっとだけ上げてみましょうよ。
「理屈」よりも「感情」。
大切なものは何ですか?
諸行無常の明日もわからぬこの世界。
何を大切に日々生きていきますか? 仕事ですか?
優先すべきもの
「働く」時に何を優先するか
人は「働く」ことなくして生きてゆけない。
これは、太古の昔からそうだ。
水を飲む、食べ物を採る、暑さ寒さから身を守る、
そういった生命の安全のために「働く」を続けてきた。
文明が発達し、衣食住が満たされるようになるにつれ、
生命の安全のための「働く」に少しずつ違う目的が追加されていった。
マズローの欲求五段階説は有名。
1.生理的欲求
2.安全の欲求
3.所属の欲求
4.承認の欲求
5.自己実現の欲求
それに照らしてこの日本の「働く」の変化を見てみる。
<第一ステップ: 3.所属の欲求>
そう、自分の父親世代が社会でバリバリ働いていたころ。
高度成長期。
運動会があった。
社宅があった。
仲人は会社の上司だった。
組織に所属し、そこで仲間と一緒になって企業の成長を目指した時代。
毎年の物価高の中、生活は楽なはずはなかっただろう。
いつも貧しい気持ちの中で、いつかはクラウン、という言葉に象徴されるように、組織に所属して会社の成長と共に自分の収入も上がっていく夢を見て生きた。
組織の成長を第一優先にして「働く」時代。
<第二ステップ: 4.承認の欲求>
とくにバブル後の成果主義の時代。
バブル崩壊により、自分の夢を組織全体の成長とかぶらせることができなくなった。
日本経済のキャパシティが一杯になってきた。
白紙の部分、余地、伸びしろが少なくなってきた。
組織に従属していてはダメだ、
脱組織、
個人の力、
そんなベクトルがウンと強くなった時代。
会社が成長するためには、一人一人が成長することが必要。
MBA、海外留学、語学スクール、などなど
私自身、そういった価値観の真っただ中にいた。
個人の成長に焦点があたった。
成果に応じた対価を与えることで、モチベーション(=欲求)を満たす方策がとられた。
自然と、滅私奉公は死語となり、
組織維持のための活動には社員が参加するモチベーションが出てこなくなった。
脱線するが、この流れを良い悪いで論じる大先輩が多くいるが、これは必然と思ってる。
人間、そんな強い生き物ではない。
「所属」ということで欲求が満たされない以上、他の欲求を求めるのは自然。
人間の堕落だとか言うのは簡単だけど、堕落していたわけではないと思う、絶対に違う。
組織が、日本社会が、より高い成長を得られなくなった現実。
ミドルエイジでバリバリ働く人々のモチベーションの源泉が「承認欲求」になったのは道理。
個人の成長と達成感を第一優先にして「働く」時代。
<第三ステップ: 5.自己実現の欲求>
そして現在。
第一ステップ、第二ステップと比べて、極めて大きく変化した。
第一ステップ、第二ステップの欲求は、あくまでも「働く」中にあった。
第三ステップの欲求は、「働く」中から外へ飛び出し始めた。
「働く」ことが、完全に手段になった。
もちろん、自己実現のスタイルは人それぞれ。
「働く」中にそれを求める人もいるだろう、
しかし、大きな流れの変化は、やはり「働く」外にそれを求める人が多くなったこと。
子供との暮らし、
親との暮らし、
地域での暮らし、
友達との暮らし、
趣味との暮らし、
ペットとの暮らし、
・・・・
いろいろな「暮らし」、ライフスタイルに焦点があたる時代になった。
第一ステップ、第二ステップでは、「働く」中にそれがあったから、
例えば、早出・残業で目一杯自己裁量で働くことは有意だった。
組織にもプラス、個人のスキル・承認・評価にもプラスだった。
だからバリバリ働いた。
バリバリ働く人がかっこよかった。
バリバリ働く人が昇進した、昇進が良い事と思えていた。
ところが、第三ステップ。
「働く」外にそれがある。
バリバリ働くと、それに向き合えない。
バリバリ働くと、それに向き合えないから不完全燃焼。
だからバリバリ働くとかっこ悪い。
バリバリ働く人は昇進するかもしれないけど、昇進は別にどうでも良い事になってきた。
それ(昇進)よりも、もっと大切なことに本当に気づいた。
本に書いてあった、誰かが言っていた、そんな「ノウハウ本」的なマニュアル的な気づきではなくって、自分自身の心の底から、「欲求」が、自己実現を求め始めた。
そこにこの大震災・原発事故。
不安に揺れる心が、あらためて、自分の欲求に光をあててくれた。
例えば、子供が大切、だから、残業よりも家に帰る。有給は完全に消化する。
例えば、地域が大切、だから、週末は地域活動に参加する。家庭の用事をウィークデイに済ませるために早く家に帰る。
そしてこのステップで、底辺にある大きな、極大の変化は、「理屈よりも感情を優先する」ということ。
理論、理屈、合理性、理路整然、ロジック・・・
そんな言葉で覆い尽くされた過去の時代。
確かに、第一ステップ、第二ステップの時代には、それが通用した。
というよりも、その方が便利だった。
組織の中でコンセンサスを形成するために、
個人の実績を他人に認めてもらうために。
感情を出すのは馬鹿者とされた。
出来ない人間と言われた。
「感情論」というと、蔑む言葉だった。
でも、それが変わった。
「感情」「気持ち」を最優先する時代になった。
自己実現のためにはそれが必要だから。必然の変化。
もはや、「理屈」を振り回すと、「で、あなたの自己実現は?」と、今度は馬鹿にされる時代になった。
質問を一つ。
原子力発電を「感情」で心の底から使い続けたいという人いますか?
原子力発電を「理屈」の上で仕方なく使い続けるべきだという人いますか?
この「べきだ」が通用しなくなったのである。
なぜなら、「べきだ」と言うためには基準になるものが必要だが、それを失ってしまった。
一人一人の自己実現、感情、が基軸になった。
そうなると、「べきだ」は存在することができない。
個人の「感情」を第一優先にして「働く」時代。
若い世代ほど、こういった時代価値の変化には敏感だ。
心で感じるからだろう。
大人を見て反面教師にできるからだろう。
どうして残業までして暮らしを犠牲にしているのか?
単身赴任で育ちざかりの子供と一緒に暮らせない選択がどうしてできるのか?
きっと、そう日々感じることから、自分の生き方を見つけていく若者。
ある意味で明確に指示してくれている。
僕のような40歳代に明示してくれている。
また、もう一つのアドバルーンがシニア世代。
「感情」丸出しで生きている。生き生きしているのが傍で見ていてわかる。
僕のような40歳代から見れば「勝ち抜け世代」。羨ましい。ずるい、って思う。
そう、「感情」を犠牲にして「働く」あなた。
そろそろ、「感情」の優先度をちょこっとだけ上げてみましょうよ。
「理屈」よりも「感情」。
大切なものは何ですか?
諸行無常の明日もわからぬこの世界。
何を大切に日々生きていきますか? 仕事ですか?
心に響く文章に感謝と同意。
理屈を通していたつもりが屁理屈に、道理を通していたつもりが詭弁に頼っていたつもりが縋ってしまい・・・・
気づいているのかいないのか、それとも認めたくないのか、つまらないプライドが邪魔なのか・・・・
ごまかしきれない矛盾と向き合って、当たり前の判断をしていきたいと思った。
by H.I (2011-05-18 14:03)